東京都の島小笠原諸島火山列島硫黄島(いおうとう)
硫黄島
硫黄島図
歴史
1543年…スペイン船サン・ファン・デ・レトラン号が島を発見。
1779年…英国船レゾリューション号が航海中に島を確認、「サルファーアイランド」と命名。
1887年…東京府により火山列島の探査が行われる。
1889年…硫黄採取と鮫漁の目的で日本人による入植、開拓が始まる。
1891年9月9日…日本領土(東京府小笠原島庁所属)に編入。「硫黄島」と命名。
1943年6月…硫黄島村の人口、192戸1,018人(男533人/女485人)。
1944年…硫黄島に旧日本陸・海軍混合部隊の配備が始まる。
6月8日…栗林忠道中将が硫黄島に着任。
6月15日…米軍が硫黄島を空襲。
7月…島民に疎開命令が出され、軍に徴用された130名を除く全島民が父島経由で内地へと疎開。
1945年2月19日…米軍の硫黄島総攻撃開始。
2月23日…摺鉢山の頂上に星条旗が立てられる。
3月17日…米軍によって硫黄島がほぼ制圧される。
3月26日…栗林大将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行し玉砕。これにより“硫黄島の戦い”は終結。
1946年…米軍の統治下に置かれる。
1968年6月26日…小笠原諸島と共に日本に返還。
1985年2月19日…米軍上陸40年目に硫黄島戦に参加した日米両軍の元兵士が二ツ根浜に集い「名誉の再会」を果たし、石碑が建てられる。
1994年2月12日…天皇皇后両陛下が慰霊のため来島。
2005年6月19日…小泉純一郎内閣総理大臣が、現職首相として初めて来島。
2013年4月14日…安倍晋三内閣総理大臣が来島、戦没者慰霊を行う。

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14/02/04-------------Copyright(C)日本の島へ行こう All rights reserved.

硫黄島(いおうとう)小笠原諸島火山列島]
[洋名:サルファー島]
激戦の爪跡は消えず
住所/東京都小笠原村硫黄島(いおうとう)
面積/23.16km2周囲/22.0km
人口/386人(H17)・367人(H12)・453人(H7)[海上・航空自衛隊職員他関係者数]/[昭和18年住民数]1,018人
アクセス/現在は自衛官やその関係者以外は立ち入ることが出来ない。※小笠原クルーズで年に1回硫黄島クルーズがあります。
小笠原ステーション
概要
硫黄島は小笠原諸島・父島の南南西275kmの太平洋上に浮かぶ火山島です。横から見るとほぼ平らで、南端に噴火で盛り上がった摺鉢山(別名パイプ山)があるのが特徴です。名前のとおり硫黄ガスが吹き出す場所や水蒸気の噴気孔があり、地殻変動も活発です。
明治22年に父島から硫黄採掘を目的とする入植があり、漁業やサトウキビ、コカ、レモングラスの栽培、香料生産なども営まれ戦前には人口が1,000人を超えるほどになっていました。しかし、太平洋戦争で激戦地となり、敗戦、アメリカ軍の統治、返還、そして現在は海上自衛隊と航空自衛隊の基地が置かれ、一般人の立ち入りが制限される島となっています。
摺鉢山の星条旗
昭和20年2月19日から3月26日にかけて日米両軍が激突。島に要塞を築いて応戦した旧日本軍約2万1,000人のうち2万人が戦死、米軍の戦死者は約7,000人、約2万2,000人が負傷。摺鉢山(すりばちやま)に米軍が揚げた星条旗の写真は、後に「世界で最も美しい戦争写真」と言われアメリカの勇気の象徴にされました。
2007年6月18日、国土地理院が島名を「いおうじま」から「いおうとう」に変更。これは旧島民からの要望に応えたもので、「いおうじま」という名前に思い入れがあるアメリカの退役軍人会からは改名に反対の声も上がったようです。
見どころ
摺鉢山
摺鉢山…南端の盛り上がった山。水蒸気が立ち上る姿から別名「パイプ山」と呼ばれることもある。標高169m。頂上には米海兵隊上陸記念碑、日本軍将兵顕彰碑、第1・第2御楯特攻隊慰霊碑などがある。
南海岸…米軍が上陸した二ツ根浜や翁浜がある海岸。上陸海岸や侵攻海岸の別名があり、激戦開始から40年目に旧日米の兵士が再開を果たしたことを記念して建てられた「再会記念碑」がある。
釜岩…西海岸の突き出た岩場。太平洋戦争当時は本島から1kmほど離れた岩礁だったが、隆起や砂の堆積により本島と繋がったもの。
鶯地獄…直径10mほどの岩穴から鶯色をした泥熱水が噴出したことから名付けられたもので水蒸気の噴出が見られる。
金剛岩…硫黄の水蒸気が噴出する東海岸にある大岩。硫黄で黄金色に輝いていることから名付けられた。
銀明水…東北地方の“かまくら”のように真ん中に穴があいている岩。噴出する水蒸気が岩で蒸留され真水ができると言われている。
サウナ壕…旧日本軍「独立歩兵第314大隊」が掘った壕跡。中の温度は50℃前後。
硫黄ケ丘…硫黄が噴出している丘。戦時中は兵隊が煮炊きを行っていた場所。また、戦前は島内のレモングラスを水蒸気熱で蒸留し香料の原料を作っていた。
千鳥温泉…東海岸の蒸気が噴出する場所。周囲は40~50℃の地熱がある。
米軍上陸記念壁画
米軍上陸記念壁画…米兵が摺鉢山に星条旗を掲げる有名な写真を岩肌に浮き彫りにしたもの。アメリカの勇気の象徴ともいえる写真だったが、岩肌には落書きや傷つけられた部分もあり反感を抱く人も多いという。
鎮魂の丘…摺鉢山や米軍が上陸した南海岸を見渡せる丘の上に建てられたもので、井上靖の碑文、山本健吉の由来文が刻まれている記念碑がある。昭和58年に東京都が建立。
栗林大将
兵団司令部壕跡…栗林忠道中将(大将)が小笠原兵団を指揮していた場所。予想に反して激戦となった“硫黄島の戦い”はアメリカ人の心にも残り、その指揮をしていた栗林の名も専門家の間で評価が上がっていた。日本では、2005年に出版された『散るぞ悲しき』(梯久美子著)や2006年に公開された映画「硫黄島からの手紙」で脚光を浴びた。
天山慰霊碑…北地区の天山にあった指揮所跡で、日本軍最期の拠点となった場所。正式には「日本戦没将兵慰霊碑」。昭和46年建立。
西竹一
西大佐戦死の碑…陸軍中佐(戦死後大佐)・西竹一。ロサンゼルスオリンピック障害馬術で優勝。男爵だったことからバロン西の通称がある。戦車部隊の指揮官として硫黄島に着任。西が命を落とした場所は不明とされているが、最期の地としてここに碑が建てられている。
硫黄島島民平和祈念墓地公園…昭和19年の本土疎開時、軍属として徴用された硫黄島島民のうち、この戦いで戦死した82人が葬られた場所。
小笠原村硫黄島平和祈念会館…墓参や遺骨収集などで訪れる人のために建てられた一時滞在施設。小笠原村が平成13年度に建設。
北観音…北地区で戦死した日本兵の供養のために建立。
南観音…南地区で戦死した日本兵の供養のために建立。

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