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志賀島
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11/09/07 --------------------------------------------Copyright(C) 日本の島へ行こう All rights reserved.

志賀島(しかのしま)[筑前諸島]
万葉と金印の島
住所/福岡県東区大字勝馬/志賀島
面積/5.82km2周囲/11.0km
人口/1,682人(H21.9末住基)・2,316人(H12)・2,555人(H7)国勢調査
アクセス/海の中道から志賀島橋を渡れば志賀島
【バス】福岡天神→志賀島小学校前(1時間5分)
【高速船】博多埠頭→志賀島港(28分)

博多湾(福岡湾)の北側を包み込むように伸びている“海の中道”。その先端の橋を渡れば歴史に名高い志賀島です。昭和5年の志賀島橋竣工当時、潮が満ちると西戸崎と志賀島の間は海に沈んでいましたが、橋が出来てからは橋脚のところに砂が溜まりはじめ、ついには陸続きになってしまったようです。こうい状態を陸繋砂州(りくけいさす:トンボロ)と言い、繋がった島のことを陸繋島(りくけいとう)と呼びます。
金印の碑
志賀島が一躍有名になったのは、「漢委奴国王」と彫られた金印が見つかったことによります。これは5世紀に編纂された『後漢書-東夷伝』に、後漢の初代皇帝「光武帝」が倭奴国からの使者に金印を授けたと記されてあり、この金印が実際に見つかったことで史記の信憑性が高まり、さらには日本の古代史に大きく光を当てることにもなったのです。金印が贈られたのは西暦57年とあり、日本列島はまだ弥生時代で文字も無かった頃のことです。彫られている文字に対する解釈は諸説ありますが、一般的には「漢委奴国王」は「かんのわのなのこくおう」と読み、委=倭で古代日本を指し、奴国は現在の福岡市付近にあった国だとされています。
金印の発見は1784年(天明4年)2月23日、小作の秀治と喜平が田を耕している時、大きな石の下から金印を見つけ、それを地主の甚兵衛が役所に届け出たことから始まります。福岡藩は亀井南冥ら数名の儒学者に鑑定を依頼。結果『後漢書-東夷伝』に記されている金印と判明、お宝発見となりました。発見場所は島の南側にある金印公園の辺りで、現在は福岡市立博物館に常設展示されています。
志賀海神社
九州北部は古代より朝鮮や中国と交流が深かった地域で、志賀島はその海路を見守る海神として神格化された存在でした。もともと古代海神族として知られる阿曇(あづみ)氏が本拠地としていたところで、志賀海(しかうみ)神社にはその祖神である「綿津見(わたつみ)神」が祭られています。
島名は神功皇后来島に由来し、対岸と島が近かったので“ちかしま(近島)”と呼ばれたものが訛って“しかしま”になったと伝えられています。しかし、これもまた神代の話で、『日本地名事典』によれば【「シカ」は「スカ」の転訛したもの。「スカ」とは「州処」つまり「砂州や砂丘のある所」】という意味だそうです。金印にしても地名の由来にしても日本の黎明期の話で、なかなか確証を得るのは難しいものです。
歴史ロマンに溢れる志賀島も夏になると海水浴客で賑わいます。志賀島海水浴場・勝馬(かつま)海水浴場・下馬ヶ浜(しもまがはま)海水浴場と3つの海水浴場はそれぞれ違った景色が楽しめ、博多湾や玄界灘が満喫できます。

関連リンク

福岡市 東区しかのしまネット(志賀島)