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恋路島(こいじしま)
夫の無事を祈る恋の島
住所/熊本県水俣(みなまた)市明神町
面積/0.23km2周囲/約4km
人口/無人島
アクセス/水俣港から約2.5km。船をチャーター

水俣の海は1958年8月から1997年10月までの39年間魚を獲ることができませんでした。いわゆる四大公害病の一つとされる“水俣病”が確認されたからです。メチル水銀に汚染された魚の拡散防止と捕獲のために水俣湾には仕切り網が張られ、海底に溜まったヘドロは吸い上げられ、そして臭いものに蓋をするかのようにその海は埋め立てられました。今ではかつての負の歴史を乗り越え「環境モデル都市」の認定を受けるほどに生まれ変わり、埋立地の公園は市民の憩いの場として提供され、護岸からは釣り糸を垂れる人の姿もよく見られます。そして公園の目の前には水俣の変遷を見守り続けてきた“恋路島”が浮かんでいます。
恋路島に関する資料はあまり残されてはいませんが、かつては定住者もいて漁業も営まれていたようです。定住者がいなくなったのは昭和27年のことですが、その後も百間港からの渡船も健在で、シーズンになると島内のバンガローやキャンプ場を訪れる人もたくさんいました。しかし、水俣の海が水銀に汚染されているという事実が叫ばれるようになると、島へ渡る人もいなくなり、昭和35年には渡船も廃止され、恋路島という名前すら語られることがなくなりました。
そもそも“こいじしま”と呼ばれるようになったのは戦後になってからのようです。以前は小路島や恋路島と書かれてはいたようですが、地元では“こきしま”と呼んでいました。そして島内には「恋の浦」や「妻恋岩」と呼ばれる所があり、若武者とその妻の悲しい物語が伝えられています。
時は戦国時代の天正12年(1584年)、九州北部で勢力を増す竜造寺氏に対して島原の有馬氏が反旗を翻します。劣勢の有馬軍に島津が援軍を差し向けますが、それは死をも覚悟の援軍でした。その島津軍の中に袋の港(水俣湾南部)から船出する一人の若者とそれを見送る女の姿がありました。女は海を渡って行った夫を想い、恋路島へ渡り毎日毎日石積みをして夫の無事を祈願します。しかし、その一途の想いが届く前に女は病で亡くなってしまいます。そんな事は夢にも思わない若武者は手柄を立てて戻ってきますが、すでに亡くなった妻の話を聞き、積まれた石を抱きかかえるように泣き続けたといいます。この石積みを「妻恋岩」と呼び、恋路島という名前の由来になったとも言われています。この若武者は敵の総大将・竜造寺隆信の首を取ったと言われている川上左京という武将で、その後「関が原の戦い」でも活躍している実在の人物のようです。

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09/05/18 更新