佐賀県の島玄海諸島馬渡島(まだらしま)
馬渡島(まだらしま)玄海諸島
仏教の村とカトリック教の村
住所/佐賀県唐津市鎮西(ちんぜい)町馬渡島
面積/4.24km2周囲/12.5km
人口/494人(H17)・601人(H12)・620人(H7)国勢調査
アクセス/【船:郵正丸】呼子港→名護屋→馬渡島港(45分)

玄海諸島とは東松浦半島の周囲に点在し、佐賀県に属する島々のことを指します。馬渡島はその中で一番大きく最も西にある島で、佐賀県最西端の地でもあります。また、壱岐水道の中程にあるため古代より大陸渡航の中継地にもなっていました。断崖が続く海岸線と平地が少なく岩肌の多い地形は人を拒むようにも思えますが、島内からは旧石器時代の細石器や縄文時代の黒曜石の鏃(やじり)なども見つかっており、1万年以上前から人の居住があったものと思われます。
馬渡島という地名も珍しいものです。江戸時代初期の頃までは「斑島」「馬渡島」「摩多羅島」「間多良島」などの色々な字が当てられていましたが、「馬渡島」が定着してきたのは江戸時代に入ってからのようです。この島が馬の放牧地だったこともありますが、もともとは平安時代末期の白河上皇院政の時代に、美濃国馬渡庄の頭だった源義俊が謀反の罪でこの島へ流され、そのまま島を支配するようになり「斑島」を「馬渡島」に書き改めさせたという伝承があります。いずれにせよ古くから「まだらしま」や「またらしま」と呼ばれていたことは確かなようで、個人的には魏志倭人伝に見られる「末羅国(まつらこく)」の「まつら」が変化したのではないか?、などと思っています。
大陸へと通じる海道の途中にある馬渡島は、逆に大陸からの恐怖にも曝されていました。文永11年(1274年)、対馬島、壱岐島と進攻した蒙古軍は馬渡島へも攻め寄ります。島民は必死に応戦するも力及ばず、西のはずれの城山へと追い詰められますが、その時一人の老婆が力を振り絞り投げた大石が蒙古軍の大将に当たり、蒙古軍は退散してしまったという逸話があります。その時の石が道路の脇に残されており、島ではチョンギー石と呼ばれています。山口県の祝島ではキリギリスのことを“チョンギー”と言うそうですが、馬渡島の“チョンギー”も同じ意味なのかどうかは分かりません。その石が細長い三角形をしているのでキリギリスの顔に見えなくもないのですが・・・。
黒潮から分かれて北上する対馬海流は玄界灘へも流れ込み、温暖な気候と豊富な海洋資源をもたらしますが、海流に別天地を求めた人達もいました。江戸幕府のキリシタン弾圧が厳しさを増すと、村を捨て海へと逃れる人達が現れます。寛政年間(1789~1801年)、長崎の黒崎村から有右衛門とその家族7人のキリシタンが海流に流されて辿り着いたのが馬渡島でした。上陸した7人はなるべく人目に付かない山奥に居を構え自給自足の生活を送ります。痩せた土地での暮らしは極貧を極めたものでしたが、自分達が信じるものを悟られないように息を殺した生活が続きます。そして1860年頃にも五島や平戸からもキリシタン漂流民が移り住み、小さな村が作られます。現在でも港の辺りの宮の本(本村)は神道や仏教を信仰する人達の村、山の上のニ夕松(ふたまつ)や野中(新村)はカトリック教徒の村と分かれています。野中の丘には昭和3年に長崎県の平戸から移築したカトリック教会が建っています。この建物は木造建築の教会としては日本最古のものだと言われています。
「♪めでたーめでた~の若松様~よ♪」と謡われる民謡「まだら節」は石川県の七尾や輪島のものとして有名ですが、そのルーツは馬渡島だとされています。魚影が豊富な玄界灘で漁を行い、潮待ちや風待ちのために馬渡島へ寄港し、仕事とともに唄が伝わり、さらには北前船によって北陸や東北の日本海側へと伝わっていったものと思われます。
島の一番高い所は西側にある「番所の辻(238m)」と呼ばれる所で、天気の良い日には展望台から壱岐、対馬、遥か朝鮮半島まで望めます。江戸時代には黒船の見張りとして遠見番所が置かれていました。ちょっと登るのは大変そうですが、元気な人は挑戦してみるのもまた楽し・・・です。
宿泊は宮の本に「旅館山下」「旅館お富」「民宿一福」の3軒があり、食料品店や雑貨屋もあります。釣り客がよく利用しているようです。また、水道などの設備は無いようですが、キャンプ場もあります。唐津観光協会鎮西支所・宿泊施設

関連リンク

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09/12/19